カトリック北仙台教会

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2022-23年第37回「世界青年の日」教皇メッセージ

2022年11月20日

「マリアは出掛けて、急いで……行った」(ルカ1・39)

 親愛なる若者の皆さん

 ワールドユースデー(WYD)パナマ大会のテーマは、「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように」(ルカ1・38)でした。この大会を終え、わたしたちは新たな目的地である2023年リスボン大会への道を歩み始めており、神からの緊急の呼びかけを心に響かせているところです――起き上がれ。2020年は、「若者よ、あなたにいう。起きなさい」(ルカ7・14)というイエスのことばを味わいました。昨年は、復活した主から次のようにことばをかけられた使徒パウロの姿を手掛かりとしました。「起き上がれ。わたしはあなたを、あなたが見てきたことの証人にする」(使徒言行録26・16参照)。リスボンにたどり着くまでの最後の段階に寄り添ってくださるのは、お告げを受けた直後に、いとこのエリサベトのもとへと「出掛けて[訳注:「出掛ける」と訳されているのは、他で「起き上がる」と訳されているものと同じ語]、急いで……行き」(ルカ1・39)助けようとしたナザレのおとめです。この三つのテーマに共通する動詞は「起き上がる」です。このことばには「再び起きる」、「いのちがよみがえる」という意味もあることは、覚えておいてほしいと思います。

 パンデミックによって受けた傷に苦しめられていた人類が、戦争の悲劇によってずたずたにされる、そのあまりにつらいこの時に、マリアはすべての人のために、とりわけあなたがた、マリアと同じく若い皆さんのために、近しさと出会いの道を再び開いてくださいます。わたしは、来年8月にリスボンで多くのかたが経験することが、若者の皆さんにとって、そして皆さんとともに、全人類にとって新たな出発点となるよう希望し、またそうなることを固く信じています。

マリアは出掛けて

 お告げを受けた後ですから、マリアは新たな事態による心配事や不安の中、自分のことで頭がいっぱいになっていてもおかしくありません。ところがそうではなく、マリアは神を信頼しきっておられます。さらには、エリサベトのことを案じています。マリアは起き上がり[出掛けて]、活力と動きとがある、陽の光のもとへと飛び出していきました。衝撃的な天使のお告げは、彼女の人生の計画に「地震」をもたらしましたが、この少女は立ち尽くしはしません。その胎にイエスが、復活の力であるかたがおられるからです。マリアはすでに、ほふられた小羊でありながら永遠に生きておられるかたを宿しておられるのです。彼女が起き上がって動き出せたのは、神の計画こそが、自分の人生の最高の青写真だという確信があったからです。マリアは神の神殿となり、旅する教会の姿、出向いて仕える教会、よい知らせを伝える教会の象徴となっています。

 人生において、復活したキリストの現存を体験すること、「生きておられる」このかたと出会うことは、最高の霊的喜びであり、だれにも「抑える」ことのできない光の大爆発です。これによってわたしたちは、直ちに突き動かされ、この知らせを他の人々に伝えるよう、この出会いの喜びをあかしするよう駆り立てられるのです。復活後の日々で最初の弟子たちをせきたてたものは、まさしくこの出会いです。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(マタイ28・8)。

 復活の物語には、「目覚める」と「起き上がる」という二つの動詞が頻出します。この二つのことばで主はわたしたちに、光の中に出て行きなさい、自分の閉じた扉のすべての敷居をまたいで出て行くよう主に導いていただきなさい、そう促しておられます。「それは、教会にとって深い意味をもった姿です。わたしたちもまた、主の弟子として、またキリスト者の共同体として、復活のダイナミズムに加われるよう、そして主が示そうとしておられる道に導いていただけるよう、急いで身を起こす[出掛ける]ことが求められています」(「聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日のミサ説教(2022年6月29日)」。

 主の母は、活動する若者の模範であって、鏡の前で自分ばかり見て動かずにいる人や、ネットに「がんじがらめになっている人たち」とは違います。マリアは完全に外を向いています。このかたは自分の外に出ていき、偉大な相手であるかた、神のもとへ、また他の人々、兄弟姉妹のもとへ、とりわけ、いとこエリサベトのように、とても困っている人のもとへ向かう、つねに脱出状態のパスカ(過越/復活)の女性なのです。

急いで……行った

 ミラノの聖アンブロジオは『ルカ福音書註解』の中で、マリアが急いで山里に向かった理由について次のように書いています。「希望で胸躍り、奥からわき出る喜びで、奉仕に献身したいと熱望したからです。今や、神に満たされたマリアがはやる思いで向かう場所は、高いところ[訳注:エリサベトのもとに行くには山を越えなければならない]のほかにあったでしょうか。聖霊の恵みは、悠長にはさせません」。マリアが急ぐのは、奉仕に、喜びを告げることに、聖霊の恵みに即こたえることに、急いでいるからです。

 マリアは、年老いたいとこの困り事にこたえようとしています。尻込みしたり、無関心でいたりはしませんでした。自分のことよりも他者のことを思っていました。だから彼女の人生には、躍動感と熱意が生まれるのです。皆さん一人ひとりが考えてみてください。身の周りでだれかの困り事に気づいたとき、自分はそれにどうこたえるのか。すぐさま、かかわらないことの言い訳を考えるのか、それとも関心をもって自分自身を用立てるのか。もちろん、世界中の問題をすべて解決できるわけはありません。それでも、身近な人の困り事から、自分の住んでいる地域の問題から、始めることはできるはずです。かつてマザー・テレサは、「あなたのしていることは、大海の一滴にすぎない」といわれたことがあります。彼女はそれに、「でもわたしがしなければ、海は一滴分、減ってしまいますから」と答えました。

 具体的で緊急のニーズがあれば、すぐに行動しなければなりません。世界には、心配して世話をしてくれる人が来てくれるのを待つ人が大勢います。どれほどの高齢者が、病者が、収監者が、難民が、自分と同じく心を痛めるわたしたちのまなざしを、わたしたちの訪問を、無関心の壁を乗り越えてくれる兄弟を、姉妹を、必要としていることでしょう。

 どのような「緊急性」が、愛する若者の皆さんを動かすのでしょうか。じっとしていられないほどに、皆さんを動かそうとするものは何でしょうか。パンデミック、戦争、強制移住、貧困、暴力、気候変動といった現実に苦しむ多くの人には、問いが生まれます。どうしてわたしにこんなことが起こるのか。なぜわたしなのか。なぜ今なのか。まさにそこに、わたしたちの存在の中心的な問いがあるのです――「わたしはだれのためにあるのか」(使徒的勧告『キリストは生きている』286参照)。

 ナザレの少女が急いだことは、主から受け取った途方もない贈り物を分かち合わずにはいられない人、経験した深い恵みがあふれ出てしまう人のそれと同じです。自分のことよりも他者の困り事を優先できる人の機敏さです。マリアは、他人からの注目や承認を求めて時間を無駄にする――SNSの「いいね」に取りつかれるとそうなります――のではなく、出会い、分かち合い、愛と奉仕から生まれる、本物のつながりを求めて行動する若者の模範となる人物です。

 お告げを受けて以降、いとこを訪ねて初めて出掛けて行ったときから、マリアは、時と空間を超えて、思いやりあるご自分の助けを必要とする子らのもとへ向かうことをやめません。わたしたちの旅路は、そこに神が住まわれておられるならば、わたしたちをまっすぐ、兄弟姉妹一人ひとりの心へと導く道となります。イエスの母であり、わたしたちの母であるマリアの「訪れ」を受けた人々のあかしは、どれほど多いことでしょう。マリアは、何世紀もの間、地上のあちらこちらで、出現や特別な恵みをもって、ご自分の民のもとをどれほど訪れてきたことでしょう。実際、このかたが訪れていない場所は、この地上にどこにもありません。神の母は人々の間を歩んでおられ、愛に満ちた優しさから心動かされ、苦悩や人生の浮き沈みをその身に引き受けておられます。ですからマリアにささげられた聖地、教会、礼拝堂がある場所には、その子らが大勢集まるのです。マリアにささげる民間信心業はたくさんあります。巡礼地、祝祭日、嘆願の祈り、家々を巡回するマリア像、そのほかにも多数ありますが、これらは、相互に訪ね合う仲の、主の母とその民との血の通った関係の具体例です。

「よい」急ぎはつねに、わたしたちを高みへと、他者のもとへとせきたてるもの

 よい急ぎは、必ずわたしたちを、高みへと、他者のもとへと駆り立てます。その逆の、悪い急ぎというものもあります。たとえば、懸命さや真剣さがなく、かかわっていることに本気で取り組むことなく、表面的にやり過ごすようになる、何でも軽く捉えてしまう性急さです。少しも真剣に考えず、心もそっちのけで、生活し、学び、働き、人と交際しているときのせわしなさです。人間関係の中でそうなることもあります。家庭でいえば、相手の話にろくに耳を傾けず、一緒に過ごすことのない関係、また交友関係でいえば、友だちには楽しませてもらい、自分の欲求を満たしてくれるよう期待する一方、友が窮地に陥り、自分を必要としていると分かればすぐに避けて、別の人のもとに去っていくような関係であればそうなります。さらに恋人どうしの情熱的な関係でも、互いを深く知り、理解するための忍耐力のある人は少ないのです。そうした態度を、学校や職場、それ以外の日常生活でも取ってしまうことがあります。いずれにしても、そうした性急さをもって生きているうちは、実を結ぶことは難しいでしょう。不毛なままとなるおそれがあります。箴言にあるとおりです。「勤勉な人はよく計画して利益を得、あわてて事を行う者――悪い『急ぎ』――は欠損をまねく」(21・5)。

 マリアがやっとのことでザカリアとエリサベトの家にたどり着くと、すばらしい出会いがあります。エリサベトは、老齢の彼女に子を授けてくださった神の、奇跡のわざをその身に味わっていたのです。エリサベトは、まず自分の話をしたくなるのが当然のはずなのに、自分のことには夢中にならずに、駆け寄って若いいとことその胎に宿った子を歓迎したのです。マリアのあいさつを聞いた途端、エリサベトは聖霊に満たされます。こうした、不意に聖霊に満たされる感じは、わたしたちが心から人をもてなすとき、つまり、自分ではなく客人をいちばんに考えるときにもたらされます。これは、ザアカイの物語にも見られます。ルカ福音書19章5−6節では次のように語られています。「イエスはその場所(ザアカイのいるところ)に来ると、上を見上げていわれた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』。ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」。

 わたしたちの多くは、思いも寄らないときに、イエスが会いに来てくださるという経験をしています。そのときわたしたちは初めて、イエスにおいて、親しみ、大切に思うまなざし、偏見と糾弾のない姿、いつくしみのまなざし、他の人からは決して得られなかったものを味わうのです。そればかりか、イエスはわたしたちを遠くから眺めるだけでは満足なさらず、わたしたちと一緒にいたい、ご自分のいのちを分かち合いたい、そう望んでおられることも感じ取ったはずです。この体験がもたらす喜びによって、早く主を迎え入れたい、すぐに主とともにあって、主をもっとよく知りたいとの思いに駆られたのです。エリサベトとザカリアは、マリアとイエスを歓待しました。この年配の二人から、歓待の意味を学びましょう。ご両親やおじい様おばあ様に、また共同体のお年寄りに、神を歓待する、他者を歓待するとはどういうことか尋ねてみてください。先人たちの経験を聞くことは、皆さんにとってよい経験となるでしょう。

 親愛なる若者の皆さん。今こそ、具体的な出会いを目指し、すなわち、若いマリアと高齢のエリサベトの間にあったような、自分とは異なる人を本当の意味で迎え入れることを目指して、急いで再出発しなければなりません。そのような出会いだけが、世代間、社会階層間、民族間、あらゆるたぐいの集団や職業間の隔たりを乗り越え、戦争にさえも打ち勝たせてくれるのです。ばらばらに分断された人類に新たな一致をもたらす希望の星は、いつだって若者たちです。ですがそれは、彼らが過去についての記憶をもっていればこそであり、老人たちの語る悲劇や夢に耳を傾けていればこそのことなのです。「前世紀に戦争を体験した世代がいなくなりつつある今、ヨーロッパで戦争が再び起きたことは偶然ではないでしょう」(「第2回祖父母と高齢者のための世界祈願日の教皇メッセージ」)。歴史の教訓を忘れずに、この時代の二極化や過激主義を克服するには、若者と高齢者の連携が必要なのです。

 エフェソの信徒への手紙の中で、聖パウロは次のように告げました。「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し……ました」(2・13−14)。イエスは、あらゆる時代において、人類の抱える課題に対しての神からの返答です。そしてこの返答であるかたを、マリアはエリサベトに会いに行くときに、身に宿して運び届けたのです。マリアが高齢の親族に差し出した最高の贈り物、それはイエスを連れて来たことです。もちろん具体的な助けも、とても大切です。ですが、生ける神の幕屋となった聖母の胎におられるイエス以上に、ザカリアの家を大いなる喜びと意義で満たすものはなかったはずです。その山里で、イエスは一言も発することなくその存在だけで、ご自身にとって最初の「山上の説教」を語られます。つまり、神のいつくしみに身をゆだねる、小さな者たちやへりくだる者たちの幸いを、沈黙のうちに告げ知らせておられるのです。

 若者の皆さんへのわたしからのメッセージ、教会が伝えるべきもっとも重要なメッセージ、それはイエスです。そうです。主そのかたを、わたしたち一人ひとりへのその無限の愛を、その救いを、与えてくださった新たないのちを伝えたいのです。そして、マリアが手本となります。マリアは、このはかりしれない贈り物をわたしたちの人生にどのように迎え入れ、そのかたをどのように他の人々に伝えていくかを教えてくださり、次にはわたしたちを、キリストを運び届ける者、キリストのいつくしみに満ちた愛を運び届ける者、苦しむ人類へのイエスの惜しみない奉仕を運び届ける者にしてくださいます。

皆そろって、リスボンへ

 マリアは、皆さんとそう変わらない一人の若者でした。マリアもわたしたちと同じです。イタリア人のトニーノ・ベッロ司教は、マリアについて次のように書いています。「聖マリア。……あなたは絶海へ漕ぎ出す運命にあったことを、わたしたちはよくよく分かっています。ですがわたしたちが、あなたに岸辺を進むよう強いているのなら、それはあなたを、わたしたちのような沿岸航海のレベルに引き戻そうとしてではありません。わたしたちのいる失意の岸辺のすぐそばにあなたがおられるのを見て、わたしたちもまた、あなたのように自由の大海原を冒険するよう召されているのだという自覚に目覚めるからなのです」(Maria, donna dei nostri giorni, Cinisello Balsamo, 2012, 12-13)。

 3年の準備期間の最初の教皇メッセージで思い起こしたように、15世紀から16世紀にかけて、ポルトガルからは、多くの宣教師を含む大勢の若者たちが、イエスと結ばれた自分たちの体験を他の民族や国民と分かち合うために、見知らぬ土地へと旅立ちました(「2020年世界青年の日の教皇メッセージ」参照)。そして20世紀初頭、マリアはこの地に、特別な訪問をなさりたいと望まれました。マリアはファティマから、あらゆる世代に向けて、回心へと、真の自由へと招く、神の愛の力強く壮麗なメッセージを送りました。皆さん一人ひとりを、あらためて心から招待します。来年8月にリスボンで開催されるWYDで頂点を迎える、国を越えた青年の大巡礼に加わってください。それから、11月20日の王であるキリストの祭日に、世界中に散る部分教会で世界青年の日を祝いますので、そのことも覚えておいてください。これについて、教皇庁いのち・信徒・家庭省から先ごろ発表された文書、「部分教会における世界青年の日開催のための司牧指針」は、青年司牧にかかわるすべての人にとって大きな助けとなるはずです。

 親愛なる若者の皆さん。わたしは皆さんが、世界青年の日(WYD)に、神と出会う喜び、兄弟姉妹と出会う喜びを、もう一度体験できるよう願っています。ソーシャルディスタンスや外出制限を必要とした期間を長らく経て、リスボンで――神の恵みにより!――皆でそろって、民族や世代を超えて兄弟として抱き合う喜びを再び得られることでしょう。それは、和解と平和の抱擁、宣教する者の新たな友愛による抱擁です。聖霊がわたしたちの心に、起き上がり[出ていき]たいという情熱と、偽りの国境を捨ててシノドス流でともに歩む喜びの火を、かき立ててくださいますように。起き上がるときは、今です。急いで身を起こしなさい。そしてマリアのように、すべての人にイエスを伝えるため、自分のうちにおられるイエスを運んでください。人生の中のこのすばらしい時期にある皆さんは、聖霊が皆さんの中で進めてくださることを先延ばしにせず、前進し続けてください。皆さんの夢と歩みを、心から祝福いたします。

ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて

2022年8月15日、聖母の被昇天の祭日

フランシスコ

世界青年の日(王であるキリストの祭日)  1984年、あがないの特別聖年に、教皇ヨハネ・パウロ二世は大十字架(380cm)を聖ペトロ大聖堂の祭壇脇に設置し、それを「主イエスの人類への愛のしるし」として青年らに託しました。以来、この十字架は巡礼のシンボルとして諸国を旅しています。国連が定めた国際青年年(1985年)の受難の主日に、青年らはこの十字架とともに教皇のもとに集まりました。そして教皇は、毎年受難の主日を「世界青年の日」として祝うよう定め、以後2~3年に一度WYD(ワールドユースデー)が開かれるようになりました。  2020年に教皇フランシスコは、各方面の要望を踏まえ協議を重ねた結果、次年より世界青年の日を王であるキリストの祭日に変更すると発表しました。祝われる日は変わりますが、この日の中心にあるのはつねに、人類のあがない主イエス・キリストの神秘です。
2023年ワールドユースデーリスボン大会 大会テーマ:「マリアは出かけて、急いで山里に向かった」(ルカによる福音書第1章 39節) -開催日程 : 2023年8月1日から6日まで    2023年に開催が予定されているWYDリスボン大会は、ポルトガルの首都リスボンを開催地とする初めての大会となります。大会テーマとして、教皇フランシスコが選ばれたこの福音は、WYDパナマ大会テーマであった「よい知らせを受け入れる(聖霊がマリアに御子の誕生を予告し、マリアがそれを受け入れる)」エピソードの後に続き、エリザベトを訪ねるマリアの訪問記へと展開していきます。  ナザレのマリアは、神にただ「はい」といって受け入れるよう、わたしたちにキリスト者の通る旅路の模範的なあり方を示しています。マリアはすでにWYD大会の主人公であり、リスボン大会でも同様です。  特に若い人々の巡礼意欲への挑戦として、教皇フランシスコは使徒的勧告で「イエスはどこにわたしたちを派遣するのでしょうか。そこには境界も限界もありません。すべての人のもとにわたしたちを派遣します」(『キリストは生きている』177)と伝えています。 WYD公式サイト(ポルトガル語/英語)www.lisboa2023.org

『若者の集い』のご案内

2022年11月19日

第6回「貧しい人のための世界祈願日」教皇メッセージ

2022年11月13日

第6回「貧しい人のための世界祈願日」教皇メッセージ

年間第33主日 

2022年11月13日

「イエス・キリストはあなたがたのために貧しくなられた」(二コリント8・9参照)

1.「イエス・キリストは、……あなたがたのために貧しくなられた」(二コリント8・9参照)。使徒パウロはこのことばを、助けを必要としている兄弟姉妹と連帯する責任の根拠として、コリントの初期のキリスト者に伝えました。貧しい人のための世界祈願日は今年もまた、わたしたちの生活様式や、現代のさまざまな形態の貧困について振り返るための、有益な促しとなるものです。

 数か月前より、世界はパンデミックの嵐から抜け出し始め、経済回復の兆しが表れ、失業によって困窮する何百万もの人も安堵しつつあります。愛する人を亡くした痛みを忘れることなく、ようやくじかに会っての人と人との交流が取り戻され、制限や制約なしでの再会がかなう、平穏な状況がうかがえるようになったところでした。まさにそうした中で、世界に別の筋書きを押しつける運命にある、新たな大惨事が視界に現れたのです。

 ウクライナでの戦争は、近年、死と破壊を撒き散らし続けている幾多の地域紛争の一つに数えられます。しかしそこでは、民族自決の原則に反する自らの意志を押しつけようとする「超大国」の直接の介入により、事態はさらに複雑になっています。脳裏に焼きつく悲劇的な場面が繰り返され、またしても、一部の権力者が相互に威嚇し合うことで、平和を叫ぶ人類の声を封じ込めてしまうのです。

2.愚かな戦争が、どれほど多くの貧しい人を生み出していることでしょう。どこを見ても、いかに暴力が、無防備な人やいちばん弱い人にとって打撃となるかが分かります。数えられないほどの人が、とりわけ子どもたちが、根ざしている地から引きはがして別のアイデンティティを押しつけるために追いやられています。エルサレムの崩壊とユダヤの若者の捕囚を目の当たりにした詩編作者のことばが、今まさに繰り返されます。「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。わたしたちを捕囚にした民が歌をうたえというから。わたしたちを嘲(あざけ)る民が、楽しもうとして……。どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で」(詩編137・1−4)。

 近隣諸国に避難民として逃れて安全を得るため、何百万もの女性、子ども、老人が、被弾の危険を冒さざるをえないのです。戦闘地域に残る人々は、恐怖に怯えながら、食糧、水、医療、そして何よりも愛の温もりを欠いたまま、毎日を過ごしています。こうした極限の状況下では、理性は失われ、苦しめられるのは多数の一般の人たちであり、すでに増大している貧困層の上にそれは増し加えられるのです。不透明で不安定な状況に翻弄される多くの人に、安心と平和をもたらすため適切に対応するにはどうしたらよいのでしょうか。

3.あまりに支離滅裂なこの状況の中、第6回貧しい人のための世界祈願日は、使徒パウロのことばによる勧めをもって行われます。イエスをしっかりと見つめなさい、イエスは「豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(二コリント8・9)。エルサレム滞在中にパウロは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人に会いましたが、彼らはパウロに、貧しい人々のことを忘れないよう求めました。エルサレムの共同体は、国を襲った飢饉による深刻な困難に直面しています。使徒パウロは早速貧しい人々のために大規模な募金を行うよう手配しました。コリントのキリスト者たちは、意識が高く協力的でした。パウロの指示で、週の初めごとに、それぞれがいくらかでも貯めたお金を集め、だれもがとても寛大でした。

 そのときから時が同じでいるかのように、わたしたちも毎日曜日に感謝の祭儀の中で、それと同じ行為を続け、共同体が貧しい人々の必要にこたえられるようにと、献金を集めてきました。それは、一人の兄弟も一人の姉妹も、必要なものを欠くことがないよう、キリスト者が喜びと責任感をもってつねに果たしてきたことのしるしです。これについては、すでに2世紀に、聖ユスティノの文書が言明しています。皇帝アントニヌス・ピウスにあてて、キリスト者が主日を祝うことを説明し、次のように書き送っています。「太陽の日と呼ぶ曜日には、町ごと村ごとの住民すべてが一つ所に集い、使徒たちの回想録か預言者の書が時間のゆるす限り朗読されます。……一人ひとりが感謝された食物の分配をうけ、これに与ります。また欠席者には、執事の手で届けられるのです。次に、生活にゆとりがあってしかも志ある者は、それぞれが善しとする基準に従って定めたものを施します。こうして集まった金品は指導者のもとに保管され、指導者は自分で孤児ややもめ、病気その他の理由で困っている人々、獄中につながれている人々、異郷の生活にある外国人のために扶助します。要するに彼はすべて窮乏している者の世話をするのです」(『第1弁明』六七, 3-7[柴田有訳『キリスト教教父著作集 第1巻―ユスティノス』教文館、1992年、85頁])。

4.コリントの共同体に話を戻すと、最初の興奮が収まると、彼らの意欲は徐々に低下し、使徒の提案した取り組みは勢いを失っていきます。だからこそパウロは、募金をもう一度もり立てるために。「今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分がもっているものでやり遂げることです」(二コリント8・11)と熱いことばで書きつづったのです。

 近年、中東や中央アフリカの紛争、そして現在のウクライナの戦争から逃れてきた、何千何百万人もの難民を受け入れるために、門を開くよう住民全体を駆り立てる決意について、わたしは今、考えています。家庭が、家族単位で避難民を受け入れるために自宅を開放し、地域社会は多くの女性や子どもたちを寛大に受け入れ、人間にふさわしい対応に努めています。しかし、戦闘が長引けば長引くほど、事態は悪化します。受け入れ側では、支援の継続が難しくなり、受け入れ家庭や地域社会は、緊急事態が続く状況に負担を感じ始めています。今こそ挫けず、最初の意欲を取り戻すときです。やり始めたことは、その責任をもってやり遂げなければなりません。

5.連帯とはまさに、もっているわずかなものを、何ももっていない人と分かち合うことで、苦しむ人がいないようにすることです。生き方としての共同体意識や交わりの意識が高まれば、それだけ連帯は強まります。一方、ここ数十年で、多くの家庭に対して手厚い福祉が拡充し、安定した生活状態になった国々があることは評価しなければなりません。これは、家族支援政策や社会的責任に働きかける具体策と結びつくよう経済成長を支えてきた、民間の取り組みと法律がもたらした好ましい結果です。手にした安全と安定の遺産を、今度は、身を守り生き延びるために家と国を離れざるをえなかった人たちと共有することができます。市民社会の一員として、自由、責任、友愛、連帯の価値を訴える声を上げ続けましょう。そしてキリスト者として、自らの存在と行動の基盤を、つねに、愛と信仰と希望のうちに見いだしましょう。

6.興味深いのは、使徒パウロはキリスト者に愛のわざを強いているわけではないことです。実際、こう書かれています。「わたしは命令としてこういっているのではありません」(二コリント8・8)。むしろ、彼らの貧しい人への配慮と気遣いに、その愛の「純粋さを確かめ」ようとしています(同参照)。パウロが求めることの根底にあるのは、もちろん具体的な援助の要請ですが、しかしながら使徒の意図はそれ以上のものです。献金を、イエスご自身があかししてきたように、愛のしるしとして行うよう招いているのです。つまり、貧しい人に寛大であることへの最大の動機づけは、ご自分を貧しくなさろうとした神の御子の選びにあるのです。

 使徒はまさに、キリストのこの選択、この「放棄」は「恵み」で、これこそ「わたしたちの主イエス・キリストの恵み」(二コリント8・9)であり、それを受け入れることによってのみ、わたしたちは自分の信仰を具体的かつ裏表なく表現できるのだと言い切っています。新約聖書全体の教えは、このテーマについて一貫しており、それは使徒ヤコブのことばにも反映されています。「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。みことばを聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります」(ヤコブ1・22−25)。

7.貧しい人を前にしては、きれいごとを並べ立てるのではなく、腕をまくり上げ、人任せにせず直接のかかわりによって、信仰を実践するのです。ところがときおり、ある種の気の緩みが生じてしまい、貧しい人に対する無関心といった、一貫性のない行動をとることもあります。また、キリスト者の中には、お金に執着するあまり、財産や遺産の誤った使い方を正せずにいる人もいます。これらは、信仰が薄弱で、希望が揺らぎやすく近視眼的である状況を示しています。

 お金そのものに問題があるのではないことは分かっています。お金は人々の日常生活と社会的関係の一部であるからです。むしろ内省すべきは、わたしたちにとってお金の価値がどれほどのものであるかということです。お金を第一の目的であるかのように、絶対的なものとしてはいけないのです。このような執着は、日常生活を現実的な目で見られなくさせ、目を曇らせ、他者の困窮に気づけなくさせます。富という偶像に目がくらみ、刹那的で絶望的な人生観に縛られてしまうことほど、キリスト者と共同体に害を及ぼすものはありません。

 ですから大事なのは、よくあるような貧しい人に対する過保護な社会保障を敷くことではありません。必要なものに事欠く人がいないよう努力することが求められているのです。救いとなるのは行動主義ではなく、心からの寛大な気遣いです。その気遣いがあるから、貧しい人に兄弟として近づくことができるのです。貧しい人はわたしに手を差し伸べ、陥った無気力から目覚めさせようとしています。ですから「自分の生活における選択のために他のことがらにより注意を払っているので、貧しい人に対しては距離をおいているなどと、だれもいってはなりません。これは、学問、実業、専門職の世界、さらには教会においてさえ頻繁に聞かれる言い訳です。……貧しい人と社会正義に対し心を砕くことを免れているであろう人は、だれ一人いません」(使徒的勧告『福音の喜び』201)。「困窮者に向けて構想されながらも、まったく困窮者側のものではなく、困窮者からのものでもない、ましてや人々を再び一つにする計画に含まれてもいない」(回勅『兄弟の皆さん』169)社会政策の枠を超えた、新しい方法を見つけることが急務です。むしろ、コリントの信者に「他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです」(二コリント8・13)と書きつづった、使徒パウロの姿勢を目指さなければなりません。

8.昔も今も、人間の論理とは対照的な、受け入れがたい逆説があります。それは、豊かな者とする貧しさがあるということです。パウロは、イエス・キリストの「恵み」に言及することで、自らが説いた内容を裏づけようとしています。すなわち、真の豊かさは「虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」ような、ため込まれた「地上の富」(マタイ6・19)にあるのではなく、だれも見捨てられたり排除されたりすることがないよう、互いの重荷を負えるようにする相互愛にあるのです。この一、二年にわたしたちが思い知らされたもろさと限界の経験、そして今世界中に波及している戦争の悲劇は、決定的なことを教えてくれるはずです。わたしたちは生き残るためにこの世界にいるのではなく、だれもが尊厳ある幸せな人生を送るために存在しているのです。イエスのメッセージはわたしたちに道を示し、気づかせてくれます。屈辱を与えて殺してしまう貧しさがあり、それとは別の、解放と幸福をもたらす貧しさがあるのです。

 人を殺す貧困は、不正義、搾取、暴力、資源の不公正な配分、それらによって生まれた窮乏のことです。展望も出口もない使い捨ての文化が土台となっているため、未来のない絶望的な貧困です。極貧状態に追い込むと同時に、霊的な部分にも影響を及ぼすほどの悲惨さです。霊的なものはしばしば軽視されますが、だからといって、存在しないもの、重要ではないものなのではありません。一日の終わりに利益を計算することが唯一決まった行動であるなら、人間を搾取する論理にもはや歯止めは利きません。他者は単なる手段となるのです。公正な賃金も公正な労働時間もなくなり、新しい形態の奴隷制度が生まれ、生活するための最低限のものを得るため、他に選択肢はなく、この毒となる不公正を受け入れざるをえない人々が苦しむのです。

 一方、人を解放する貧しさとは、重荷を軽くし、大切なものに集中するための責任ある選択として示されているものです。実際、何か大切なものが欠けていると感じ、それを求めてあてのない放浪者のようにさまようことで、多くの人が味わっている満たされなさは、簡単に見分けることができます。自分を満たすものを探し求める彼らは、何が自分にとって真に必要なのかの理解を得るため、小さくされた人、弱い人、貧しい人へと向かわなければなりません。貧しい人との出会いによって、漠としたさまざまな不安や恐怖にとらわれなくなり、人生において本当に大切なもの、だれも奪うことのできないものに至れるのです。すなわち、まことの無償の愛にです。事実、貧しい人はわたしたちの施しの対象ではなく、わたしたちを不安や浅薄さの束縛から解放してくれる主体なのです。

 教父であり教会博士である聖ヨハネ・クリゾストモは、その著作の中で、いちばんの困窮者に対するキリスト者の振る舞いを強く非難し、次のように記しています。「貧しさがあなたを豊かにすると信じることができないなら、あなたの主を思い、そのかたを疑うのをやめることです。主が貧しくなられなければ、あなたが豊かになることはなかったのです。貧しさから多くの豊かさが生まれたということは、驚くべきことです。パウロがここでいう『豊かさ』とは、あわれみの心、罪からの清め、正義、聖化、そのほか、今もいつもわたしたちに与えられている、数え切れないよいものを意味しています。貧しさのおかげで、こうしたすべてが可能なのです」(「コリントの信徒への手紙二についての説教」17・1)。

9.今回の第6回貧しい人のための世界祈願日が引用する使徒パウロのことばは、信仰生活の大いなる逆説を示しています。キリストの貧しさこそが、わたしたちを豊かにするのです。パウロがこの教えを伝えることができ、教会が何世紀にもわたってそれを広め、あかしすることができたのは、まさしく神が、御子イエスにおいてこの道をお選びになり、歩み続けられたからです。主がわたしたちのために貧しくなられたのですから、わたしたち自身の人生が、照らされ、変えられ、世が知らず、与えることのできない価値を獲得するのです。イエスの豊かさとはその愛であり、それはだれに対しても閉ざされることなく、すべての人に、とりわけ、疎外され、必要なものを奪われている人々のもとに向かう愛です。愛ゆえに、ご自分を無にして、人間の境遇を担われました。愛ゆえに、ご自分を、十字架の死に至るまで、仕える者となさいました(フィリピ2・6−8参照)。愛ゆえに、「いのちのパン」(ヨハネ6・35)となられました。それは、だれもが必要なものを欠くことなく、永遠のいのちを養う食べ物を得られるようにするためです。当時、主の弟子たちがそうであったように(ヨハネ6・60参照)、今日でもこの教えを受け入れることは難しいように思われますが、イエスのことばは明解です。いのちが死に打ち勝ち、尊厳が不正義から取り戻されることを望むのなら、進むべきはあのかたの歩んだ道です。イエス・キリストの貧しさに倣い、愛のためにいのちを分かち合い、自分という存在であるパンを、兄弟姉妹とともに、しかもまずもっとも虐げられている人、必要なものに事欠く人とともに裂くことで、平等を生み出し、貧しい人を困窮から金持ちを虚栄から――どちらにも希望はありません――救うことです。

10.去る5月15日、兄弟シャルル・ド・フーコーが列聖されました。彼は裕福な家に生まれながら、イエスに従うためにすべてを捨て、イエスとともに貧しい者となり、すべての人の兄弟となりました。初めはナザレで、次にサハラの荒野で、沈黙と祈りと共有によって築かれた彼の隠遁生活は、キリスト者の貧しさの模範的あかしです。彼の次のことばを深く味わうことは、わたしたちにとって有益です。「貧しい人、小さくされた人、労働者を軽んじてはいけません。彼らは神におけるわたしたちの兄弟であるばかりでなく、その目に見える生活において、ほぼ完全にイエスに似た人たちなのです。彼らは、ナザレの労働者であるイエスを完全に体現しています。選ばれた民の中の長子であり、救い主のゆりかごにいちばん先に招かれた人たちです。イエスの誕生から死に至るまでの、つねなる友でした。……彼らを敬い、彼らの内に映る、イエスとその聖なる父母の姿をたたえましょう。……主がご自分の身に引き受けてくださった[境遇を]、わたしたちも引き受けましょう。……わたしたちは、すべてにおいて貧しい者、貧しい人の兄弟、貧しい人の友となることを決してやめてはなりません。イエスのように貧しい人の中のもっとも貧しい人となり、イエスのように貧しい人を愛し、彼らを囲む者となりましょう」(『黙想』263「ルカ福音書注解」)1。兄弟シャルルにとって、これらは単なることばではなく、具体的な生き方であり、いのちという贈り物そのものをイエスと分かち合えるようにしてくれるものなのです。

 この第6回貧しい人のための世界祈願日が恵みの機会となり、個人として、また共同体として良心の糾明を行い、イエス・キリストの貧しさを人生の忠実な友としているかを振り返る機会となりますように。

ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて

2022年6月13日 パドバの聖アントニオの記念日

フランシスコ

  貧しい人のための世界祈願日(年間第33主日)とは    いつくしみの特別聖年(2015年12月8日~2016年11月20日)の閉年にあたり公布された使徒的書簡『あわれみあるかたと、あわれな女』(2016年)で教皇フランシスコは、年間第33主日を「貧しい人のための世界祈願日」とするよう定めました。  ご自分を小さい者や貧しい者と等しい者とみなされたキリストに倣い、わたしたちも、貧しい人、弱い立場にある人に寄り添い、奉仕するよう求められています。  不平等や不正義のない世界の実現に向けて、具体的なわざを通して神のいつくしみのあかし人となれるよう、祈り求めていかなければなりません。  

死者の月

2022年11月1日

 カトリック教会で行われる通夜の式は「親しい人との別れは、だれにとっても悲しいことです」という招きの言葉で始まりますが、特に身近な人のを前にして、という現実を目の当たりにするのはいつの世も同じです。しかしキリストを信じる者にとってが人生の終わりに思えたとしても、新たな人生の始まりであり、目的である天国への旅立ちであることを信じているからこそ、人のを素直に見つめ、悲しみの中にも安らぎを覚えるのです。通夜での祈りはそのことを表明します、「キリストは『わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者はたとえんでも生きる』と教えられました。別離の悲しみのうちにもわたしたちは、このキリストのことばに慰めと希望を見いだします」(カトリック儀式書「葬儀」)。

 このようにキリスト教においては、いうものが神のみもとに帰り、永遠のいのちにあずかるということですから、亡くなった人の魂が永遠に安らかに憩うように祈りをささげることをかねてから教えてきました。またわたしたちは生者同士の関係だけでなく、生者と死者との連帯関係にあります。故人が天国に入るためにはその霊魂があらゆる罪の汚れから清められ、神のみもとで永遠の幸福にあずかることができるように祈ることによって死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成しをしてくださることを信じるがゆえに、教会はキリスト教の初期時代から、死者の記念を深い敬愛の心をもって尊び、死者のための祈願をもささげてきました。

 教会の典礼暦で11月2日は「死者の日」とし、亡くなったすべてのキリスト者を記念します。キリスト者の間では2世紀頃から死者のための祈りを唱える習慣が生まれ、次第にミサが伴うようになりました。亡くなったすべてのキリスト者を1年の特定の日に記念することは、7世紀初めにセビーリャの司教イシドルスが、聖霊降臨の祝日の翌日に死者を記念するミサを行なうように指示したことに始るとされています。さらに、諸聖人の祭日(11月1日)の翌日にすべての死者を記念する習慣は、998年にクリュニー修道院院長のオディロンによって始められ、その修道院の修道士たちの影響によって11世紀には広く行なわれるようになりました。ローマ教会には1311年の暦に始めて記されていますが、それ以前からローマでも死者の日の記念日が行われていたと思われます。この記念日は西欧諸国に広まり、15世紀には、スペインのドミニコ修道会で盛んに行なわれ、司祭がこの日に3回のミサをささげるようになったのもこの頃だといわれています。18世紀になる頃には、3回のミサの習慣が世界各地に広まり、1915年に教皇ベネディクト15世がこれをすべての司祭に許可することによって、全教会に広めました。現在はこのような規定はありません。

11月が「死者の月」として定着してきたのがいつからなのか定かではありませんが、死者への思いがミサをはじめとする様々な祈りの形で表され、それが広がりを見せ、伝統・習慣となって次第に死者の月になったと考えられます。

https://www.cbcj.catholic.jp/faq/dead/ より

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