名誉教皇ベネディクト16世は、第12回シノドスで「正しい聖書解釈」について問題提起をしておられました。歴史的・批判的な方法の必要性と有効性を認めながらも、もう一つの方法について述べておられました。提言にも盛り込まれていましたが、私には難解で、未消化のまま5年も過ぎました。カトリック新聞の「信仰年」期間中の記事が、理解の手懸りを与えてくれました。
その1、教理省長官の「教皇ベネディクト16世 が示されたカトリック神学の原理に従った唯一の可能な解釈」、それは「連続性における刷新、改革による解釈法」。
名称が付いていました。大事な注釈もありました。「ここで『連続性』という言葉で伝えようとしている意図は、『源泉との恒久的な一致』です。」
その2、教皇フランシスコは、「キリスト教をイデオロギー的観点から解釈する全ての行為は、知性だけを通して福音を見ることにより、愛または美には目を向けない方法であり、福音を偽るものだ」と語られました。
また、次の様にも話されました。「愛への道、福音の道は、単純です。それは、聖人たちが理解した道です。回心への道、謙遜の道、愛と心、美の道です。」
イデオロギー(哲学用語、ドイツ語で、『観念体系・意識体系』。『特定の社会、政治的意識を持つこと』等)
その3、酒井新二氏は「意見・異見・私見』欄で、「はじめにロゴスあり」と題して次の様に述べられました。
「『本体論』とは、神の定めた秩序を前提とする思考方法であり、近代の倫理学はこの本体論を乗り越えることから始まった。ミサの説教や教皇のことばは、言うまでもなく、この本体論に立っている。」
「パスカルに於いては未だ『神の影』が残っているが、サルトルに至ってはそれも消えている。」
その4、糸永真一司教が「意見、異見、私見」に投稿されて「カトリックの信仰には『カトリック教会のカテキズム』と言う拠り所がある」、「聖書解釈に統一した基準があり、教導もしっかりしており、信仰は共同体の信仰であり、個人の信仰ではない」と述べておられました。(テーマ「エキュメニズムは教会のプロテスタント化ではない」の中から)
「信仰年」のお恵み、もう一つ。教皇、お二人の言葉は、これから日々の信仰生活の支えとなるでしょう。
「神は、世界の起源についての遠大な仮説でも、わたしたちとかけ離れた数学的概念でもありません。むしろ、具体的な神、存在する神です。歴史の中に歩み入り、歴史の中に現存される神です。」( 教皇ベネディクト16世 337回目の一般謁見)
「日々の出来事の中に隠れた仕方で神がおられます。あなたの傍にもおられます。
私が、旅に疲れた時『私は家に帰りたい』と言う力がありさえすれば、あなたは 戸が開かれているのを見出します。神は あなたに会いに来られます。例え罪深く、弱い者であっても 神はあなたの傍におられます。」(教皇フランシスコ 19回目の一般謁見演説) (GG)