葦の髄から(9)
2014年3月29日
3月14日(金)の河北夕刊4面に、何ともカワイイ写真が載っていました。サンピエトロ広場でのことです。見出しは「教皇の抱っこに大泣き」。
パパ様そっくりの白い服装の1歳くらいの男の子が抱っこされて大泣きしていました。子供にとって大泣きは当然のこと。写っていない親御さんや広場の皆さんは、大喜び!そんなことを感じさせる写真でした。記事は、パパ様の来日にも期待を示していました。
教皇は、私達を優しく真の信仰へと招かれます。
昨年9月22日のカトリック新聞に「パパ様からの宿題『毎年の洗礼日を記念して』」の記事があります。それは、教皇16回目の一般謁見演説「キリスト信者の母である教会」からのものでした。
その中から「私が、直接パパ様から呼びかけられていると感じた部分」を抜粋します。
ここで質問を皆様にしたいと思います。答えは心の中でして下さい。(皆様の中で、自分が洗礼を受けた日を覚えている人がどれだけいるでしょうか。…)
洗礼を受けた日は、わたしたちが教会へと生まれた日です。(私達の母である教会が、私達を生んで下さった日です。)
ここで皆様に宿題を出したいと思います。(今日、家に帰ったら、自分が洗礼を受けた日を調べてください。…)
そうしてくださいますか。
「新しい福音宣教」は、私達の信仰を改めて問い直しています。教皇は、私達をその入口へ優しく導いてくださっています。私にそれを強く感じさせるのが太字の部分です。
でも、優しさは、厳しさでもありました。教皇は、このお話の中で「教会の神秘」へと神学的考察を深めて下さっています。
今年の1月8日の31回目の一般謁見でも同じ問いをなさいました。
「今日の宿題です。今日、家にお帰りになったら、受洗日を調べるか、尋ねてください。」
私は、係りの方に頼んで洗礼日を調べて頂きました。洗礼を受けて55年経っていました。
次に続くお言葉が心に響きました。これからも響き続けて下さることを願っています。
「私達は自分の洗礼を、日々、人生の実際の現実として生きるよう招かれています。私達が自分の限界と弱さと罪にもかかわらず、イエスに従い、教会のうちに留まることが出来るとすれば、それは洗礼のおかげです。」(GG)