40年前(3)
2012年6月22日
アメリカでは、30歳までのうちに 平均4回転職するという。(毎日新聞、5/29、編集委員記事)
B子の夫は、化学をやった人。30歳を前にして、東京から関西の会社に 勤め先を変えた。そちらの方が面白そうだからと。化学も 私が思っていたのと違って、先端技術分野の材料に関するものだと言う。
B子も、転居先で また美容院勤務。在来、その店では独身者だけだったが、これからの時代を考えて 既婚者を初めて採用したと言う。
私の定年退職は55歳。故郷N県にあるO社に就職した。仙台営業所が開設された。元の会社と取引があったのと 大先輩が居られたので、この様な道が開けたことは間違いない。今流で言えば、天下り就職である。
O社の業容は知っていたが、建築鉄骨部門が 高度成長期に 大手に名を連ねる程になっていた。仙台は新しい市場として、その営業もやった。全く経験のない分野であり、思いがけない苦労であった。
しかし、この業界は、オイルショック後の 安定期と称される時期 既に過当競争状態にあり 苦しい経営を迫られていた。激しい受注競争、元請と下請、組織運営とコミュニケーション等考えさせられるものがあった。重厚長大産業が、景気の主役の座から降りる様も見た。
大雑把ではあるが、身辺を3回に亘って見てきた。凡庸だが、時代の波と共に変化していた。
しかし、或る人が言っていた。「一括りに団塊の世代と言われたくない」と。「戦中派」の私もそう思う。旧制中学の同級生に、戦死者が1人、ソ連抑留者が2人いる。戦後の生き方は様々であった。100人いたのが、今は 半数を割り込んでいる。同級会は喜寿を以て打ち切っている。
総ては過去のことである。今は、子供たちが 第二の人生 を考える時期にさしかかっている。(GG)